恋の気配
昨日から東京はとても寒くて、脳内でKIRINJIの恋の気配が流れる
秋の日の短さを歌っているけれど、秋の短さを考えるときも流れる
もう金木犀の香りはしなくなった
秋の日は短い
瞬く間に暮れる
ほら太陽は坂道を転げ落ちる林檎
日に日に影は長く
日に日に影は長く
昨日とは違う光の中にいる
今年の秋はネオをたくさん聴いた
あのとき出会えていたなら、と思いを馳せながら当時のライブの映像を観ていた
でもあの頃の私は歌詞を聴いていなかったし、おそらく今出会えたからこそより良さが分かるのだろうとも思う
思春期にあたる学生時代こそ歌詞に浸りそうなものだけど、と少し前に言われてそれはそうだと思ったけれど
当時の私はとにかく音に惹かれたから、という理由だけで音楽を好きになっていた気がする
今も感覚派だけれども、思春期はもっと感覚派だったのかも
(考えなしの阿呆と言われるとそれまでだが)
ここ数年で歌詞を聴いて、ここが好きだとかそういった感情が湧くようになった
詩集を読んで、私ならと置き換えるようなことが増えた
(そもそも詩集を読むという選択肢は最近増えたものだけれど)
昔、失恋したら失恋ソングを聴いて共感しながら泣いて処理するのだという友人の話に共感できなかったけれど、今失恋したのなら私も同じことをするだろうか
新しい感情の向き合い方が増えるのはよいことか、それともセンチメンタルになりすぎるのか
感情の処理が上手い大人になりたい
20代の山も中腹、大人だと思っていた年齢は特に大人でもなく、同時に自分にとっての大人たちも同じ人間と気づく
みな表面上に出さないのが上手いだけなのか
想像でつくっていた大人は何処へ
私はどうだろう
感情と良い向き合い方をして、はたから見て大人になれているだろうか(良い向き合い方とは)
ぼんやりまとまらないことを考えながら打ち込んでいる
感情と感覚、論理的に考えられること すべて別物なのに
話が飛躍している
まずは順序だてて感情・思考を整理するところからだなあ