時間がない

 

最近のこと。時間はある。けど本ばかり読んで時間が足りないのでない。

 

この7日間で読んだのは

朝井リョウ「正欲」

リチャード・ブローディガン「西瓜糖の日々」

森見登美彦森見登美彦の京都ぐるぐる案内」

高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」

平庫ワカ「マイ・ブロークン・マリコ

 

積読解消やら気の向くままやら黙々と読書に耽る秋の夜長である。

感想だとか、纏めたい気持ちもありつつ吸収したい気持ちが勝つ。

今は春琴抄を読んだり穂村さんのエッセイを読んだり。だりだり。

 

ブログも一過性の熱に過ぎないのでもう1週間空いている、書いているうちに恐らく12月を迎えることでしょう。

 

表題はKIRINJIから拝借してきたもの。

Spotify先生から今年のプレイリストを渡される。

100曲あるうち26曲がKIRINJI。3146分はKIRINJI聴いてたぞと言われる。

なぜか「愛をあるだけ、すべて」をめちゃくちゃ聴いていたらしく、トップ5のうち3曲が同アルバムのものだった。AIの逃避行大好きだからな、アルバムごと周回してたんだろうな。

 

私はやりたいことができるとすぐに時間を一極集中させて、その他がおろそかになる。

今は部屋が散らかっていて、洗い物がたまりつつある。

余暇は全て読書につぎ込んでいるが、そんな生活をしていても音楽は隙あらば流したくなり、本が読めない時間は音楽と過ごしている。今年もたくさんお世話になったなあ。

 

2023年の私の音楽ブームと言えば、Ginger Rootを知れたことはかなり大きく、秋以降は彼から元気をもらった瞬間が多々。「Loretta」の日本語版が好きで好きで、馬鹿の一つ覚えのようにリピートをした。

 

なんだか書きたいこと沢山あるのに12月が来てしまったのでこれにて。

土日は少し遠出をするのでこれから荷造り。。。。

(地味に嫌なことランキングが存在するならば、荷造りと荷解きは確実に上位)

おやすみなさい。

 

Eccentric Person Come Back To Me

 

少し日にちが開いてしまった

 

直近の土日は行動的だった。

金曜日から行動的だった。友だちと夜ご飯、明けて土曜日は渋谷でウィンドーショッピング。そのまま歩いて恵比寿でアンダーグラウンドを観る。映画にあてられてひとりで居たくないと思い、明け方まで会話が行き交うバーで過ごす。

日曜日は少し仮眠を取り、川上未映子見たさに(なんてミーハー心!)昼はTAMA映画祭、夜は友人に誘われてひなぎくを。

 

大学生みたいなスケジュールだ。いや、私は飲み明かすような大学生ではなかったし、こんなに活動的なのは人生初めて。生き急ぐぐらいが丁度いいかもしれないと思って、最近はいつも以上に思い立ったらすぐ行動してる。悔いなきよう。という理由付けは半分建前。魅力的な人間になるのにおもしろさが欠けていると思ったからというのが大きいかも。

 

私は自分の選択に後悔してない、と対外的には言っているがどうなのだろう?嘘でもないけど、学生の時間にもっと学んでおけばと思っていて、それは後悔なのでは?と思った。私が選び取った選択肢を正解にするには、今現在の私が補強するしかないのだ。

 

面白い人が好きだ。面白い人って頭がいい。教養がある。

少し前に下記ツイートがおすすめに流れてきた。

私は人間としていかに面白いかを気にして生きているなあと思っていて、コンプレックスなのかもと思った。面白いと言ってくれる人がいないわけではないけれど、多分自分が面白いと思った人間に君は面白い人間だっていわれないと満足できないと思う。話していて、この人の話聴くの楽しいな面白いなと思う人間、私が話しているときつまらないだろうと思ってしまうのだ。いつになったら脱却できるのか。永遠の課題。

 

 

 

水中翼船炎上中

 

水中翼船炎上中

なんて響きだろうと思った。

 

大人になってから曲の歌詞も聴くようになった私だが、

だからなのか、最近は言葉に興味が湧いている。

 

日本語を慈しむ椎名林檎が好きだ。

彼女の歌詞、たぶん理解できていないものの方が多いけれど、

日本に生まれたことを噛み締められる。日本語ってたおやかで好きだ。

 

大胡田なつきの言葉選びも好き。

日本の、自国の言葉を大切に思う彼女らの姿を見て、高校生の頃はたいそう憧れたものだ。

(今も好きであるが、あの思春期特有の視野が狭く一直線に熱意を込めて追う、少し宗教の信徒のようなあの感じ。視野が狭くて少し痛くて可愛らしいのが高校生である。)

 

潜在的に美しい日本語に憧れた私、言葉を選ぶ人間、知る人間に憧れた私である。

最近はそれがようやく表出化したというのだろうか、詩に興味を持ち始めたのである。

 

先月、劇団ロロのいつ高「本がまくらじゃ冬眠できない」をyoutubeで観た。

劇中、最果タヒの「天国と、とてつもない暇」が登場する。それがきっかけで初めて詩集を手に取った。

痛くて尖っていて、でも少し柔らかくて、そして燃えていて早くて、分からなくてちょっとだけわかる感じ。一緒にご飯を食べて、この人とどうにかなることは無いかも、とぼんやりショックを受けた後に読んで、明け方読みながら少し泣きたくなったこと。泣かなかったけど喉の奥が渇いて痛かったこと。本の記憶と紐づいてしまいそうだった。

 

少し落ち着いて、自分の時間が欲しくなり、あまり人との予定を入れていない今月。

ずっと気になっていた穂村弘を手に取ってみた。

いつも面白い話をするネット上の読書家たちが好きだという歌人

 

どれにしようか迷ったけれど、「水中翼船炎上中」というタイトル。

どきどきして惹かれて図書館で借りた。ここでようやくタイトルに戻る。

幼少の記憶、季節、家族といった日常の風景を短歌に落とし込む。

こんなに短い言葉の中でタイムスリップできてしまうこと。わくわくして夢中になってよんだ。

夜ごとに語り続けた未来とは今と思えばふわふわとする

不可逆的な時間のなかを生きる私たち。

最近読んだ夏物語にも、確かにあった出来事で、それはこの体で体験したことというのが不思議な感じ、みたいな文面があった。(超意訳である。思い出そうとページをめくったのだが見つけられず。)

あとがきに

人間の心は時間を超える。けれど、現実の時は戻らない。目の前にはいつも触れることのできない今があるだけだ。・・・私の言葉はまっすぐな時の流れに抗おうとする。自分の中の永遠が壊れてしまった今も、水中で、陸上で、空中で、間違った夢が燃えつづけている。

とある。心は時間を超えられるから、言葉で抗えば心で過去にトリップできる。

写真や絵みたいに、短歌も宝箱になる。開いたら時空の香りを嗅げる宝箱。プルースト効果

 

社会人になってもこうやって新しい感覚に触れられるとやっぱり嬉しい。

もっと言葉に触れたいと思った。

 

私にとっての水中翼船ってなんだろう。考えながら眠りにつこうかな。

 

素敵じゃないか

  

明け方、ここ最近読んでいた川上未映子の夏物語を読み終えた。

久しぶりに小説を読んだ。

 

きっかけは岸井ゆきののエッセイを読んだこと。

好きなひとの好きなものを漁る受け売り集合体人間なので、エッセイを読み終わった直後に買った。我が家の積読の数はものすごい量であるのに。

 

岸井ゆきのは合間で読む本ではないと言っていたし、本の帯では村上春樹が最後に向かうところが僕はなにより好きだと言っていたし、読書家の友人は去年読んだ本の中の上位にいると言っていた。ので必然的に楽しみにしていて、時間をとって読もうと決めていた。

 

一部を読んでいるときは小休止を挟んでちまちまと読んでいたけれど、二部に入って文体のテンポの良さに引き付けられてこの数日間でほとんどを読んだ。

生む生まないを主軸とする物語は初めて読んだ気がする。

 

このテンポの良さに惹かれて読んだが、何を考えて読んでいただろうと振り返る。

 

テンポの良さってどこから来てるのか。

歯切れのよい会話、関西弁、その場その場の空気の比喩表現。空気だけでなく人がどんな状態であるかを丁寧に描写しているから、生々しく登場人物の息遣いが感じられること。

 

子をなす願望が無い私も子を欲しいと思うときが来るのだろうかとか、でもそれ以前に恋愛をしたいのだが、、みたいなこと。

この作品では男性を嫌悪する登場人物が過半数だった。

未だに恋に恋をする私は、言っている意味を理解はできるが、そこまでの汚さ・醜さに直面したことがないため共感して読んでいたかと言われると否だった。

対比として登場人物の思想が極端に分かれてくる部分は結構好きだったな。

 

友人に読んだよの自己満足報告をしたら、乳と卵が前身として存在すること、

川上弘美の選評が好きだという話をしてくれて、この作品は選評に対するアンサーでもあるのかと思った。近いうちに読みたい。

あと十年たった緑子がどうなっているのか、たいそう興味をひかれる。病んでいるのに、不思議にすこやかな印象がある。

 

夏物語で出てきた作品たち。

バグダッドカフェ春琴抄メメント、素敵じゃないか。

 

素敵じゃないかのメロディは知っていたのに、曲名とグループ名は知らなかった。

なぜか私にとってこの曲はクリスマスを彷彿とさせる。なんでだろう。

電飾とクリスマスチキンが似合う曲。私だけかも。

 

中学生の頃に観た「陽だまりの彼女」にもかかっていた模様。観たはずなのに記憶がない。

 

今週末、川上未映子トークが聴けるとのことで、TAMA映画祭に足を運ぶことにした。アンダーグラウンドも観に行くので映画ウィーク。

それまでにアイスクリーム熱とユーゴスラヴィア史を少しでも予習せねばなるまい。

今日はここまで。

 

 

恋の気配

 

昨日から東京はとても寒くて、脳内でKIRINJIの恋の気配が流れる

秋の日の短さを歌っているけれど、秋の短さを考えるときも流れる

もう金木犀の香りはしなくなった

 

秋の日は短い

瞬く間に暮れる

ほら太陽は坂道を転げ落ちる林檎

日に日に影は長く

日に日に影は長く

昨日とは違う光の中にいる

 

今年の秋はネオをたくさん聴いた

あのとき出会えていたなら、と思いを馳せながら当時のライブの映像を観ていた

 

でもあの頃の私は歌詞を聴いていなかったし、おそらく今出会えたからこそより良さが分かるのだろうとも思う

 

思春期にあたる学生時代こそ歌詞に浸りそうなものだけど、と少し前に言われてそれはそうだと思ったけれど

当時の私はとにかく音に惹かれたから、という理由だけで音楽を好きになっていた気がする

今も感覚派だけれども、思春期はもっと感覚派だったのかも

(考えなしの阿呆と言われるとそれまでだが)

 

ここ数年で歌詞を聴いて、ここが好きだとかそういった感情が湧くようになった

詩集を読んで、私ならと置き換えるようなことが増えた

(そもそも詩集を読むという選択肢は最近増えたものだけれど)

 

昔、失恋したら失恋ソングを聴いて共感しながら泣いて処理するのだという友人の話に共感できなかったけれど、今失恋したのなら私も同じことをするだろうか

新しい感情の向き合い方が増えるのはよいことか、それともセンチメンタルになりすぎるのか

 

感情の処理が上手い大人になりたい

20代の山も中腹、大人だと思っていた年齢は特に大人でもなく、同時に自分にとっての大人たちも同じ人間と気づく

みな表面上に出さないのが上手いだけなのか

想像でつくっていた大人は何処へ

私はどうだろう

感情と良い向き合い方をして、はたから見て大人になれているだろうか(良い向き合い方とは)

 

ぼんやりまとまらないことを考えながら打ち込んでいる

感情と感覚、論理的に考えられること すべて別物なのに

話が飛躍している

まずは順序だてて感情・思考を整理するところからだなあ

 

fortuitous

 

fortuitous

[形]

1. 偶発性の、偶然の

2. 幸運な

 

アカウント名何にしよう、と迷った。

僥倖って英語で何だろうと検索して、出てきた単語にした。英語は苦手。別に日本語も得意ではないけど。

 

私的なブログは10年前にアメブロが流行していた時ぶりに書く。続くかな。続くといいな。

 

僥倖。偶然の幸せ。

今年は再会の多い1年だった。必然かもしれないけど、偶然でも私を見つけてくれたら。

 

今は10:45

昨日寝落ちしてしまって途中になっていたロメールのパリのランデヴーを観た。

フィルマークスに記録をつけようとページを開くと、心に残ったセリフを友人もメモしていて嬉しかった。と同時に気恥ずかしくて私はレビューに書かなかった。

彼なしでは存在しない 鏡像と同じだったのよ

 

土曜の午前は幸せ。毛布にくるまって好きなことをする。今日は風が強い。

 

最近は部屋を片付けて、花を生けるようになった。

カメラのレンズも新調した。

秋の花のおすすめは?と訊くとリンドウを教えてくれた。

カメラのF値は小さいとピントの合う範囲が狭まり、大きいとピントの合う範囲が広くなる。

 

偶然そこにいた店員さんに話を聞いて、知識が積もる。ちょっと幸せ。

そういうことが沢山あるとよい。